神奈川県立近代美術館鎌倉別館にて。
長いなまえなのでつい略さずに書いてしまう。
葉山館と鎌倉館には行ったことがあったけれど、
別館はハジメテ。
鶴岡八幡宮を越しててくてく歩いて、
あれえ道はこれでいいのかな?と思った瞬間、道案内の標識が。
見透かされたね。
別館の隣はイタリアンのレストランらしく、居心地がよさそう。
こんど行ってみよう。
展示には混乱させられた。
黒を基調としたコラージュにときたま蛍光色が入り、目に楽しい。
紙のきっぱりした配置。
でも、主題は狭山差別事件なのだ。
これを美しいと感じてよいのか、混乱した。
今世の中で起こっていることと、この事件が、どうにも重なって見えたり。
作家はこの事件を通じて、大きいものに圧される小さいものを描くんだけど、
その緊張関係がきれいに見えてしまって。
だから、そういうことじゃないのだ。
暴く、という姿勢は、必ずしも泥にまみれていなくてよいのだ。
まだ私は考え中です。
2011/03/26
Adobeって商標?
母と久しぶりに電話。雛祭りの日に最悪な電話をして以来。
「話したいことがあるんだけど」とメールがあったので、何ごとかと思い、コールバックすると、開口一番、「あのー、パソコンで、PDFっていうのあるやん?あれに書き込みにするには、なんかソフト必要なんかね?」。
5、6往復くらい同じ会話をして、acrobatとacrobat readerの違いについて説明した。
しかし、思いは絶対に届いていないことを確信している。
どうしてああいうときの親はわかってないのに、わかったフリをするのか疑問。
でも、大塚のクレオパトラ話しばりに救われた気持ちになったのも事実。
「話したいことがあるんだけど」とメールがあったので、何ごとかと思い、コールバックすると、開口一番、「あのー、パソコンで、PDFっていうのあるやん?あれに書き込みにするには、なんかソフト必要なんかね?」。
5、6往復くらい同じ会話をして、acrobatとacrobat readerの違いについて説明した。
しかし、思いは絶対に届いていないことを確信している。
どうしてああいうときの親はわかってないのに、わかったフリをするのか疑問。
でも、大塚のクレオパトラ話しばりに救われた気持ちになったのも事実。
2011/03/23
彫刻家エル・アナツイのアフリカ
神奈川県立近代美術館葉山にいってきた。
『彫刻家エル・アナツイのアフリカ』展。
twitterでピーター・バラカンさんがおすすめしていたので、行ってみたくなった。
わたしはよくこの美術館に行く。
同じ建物、同じ間取りに、展示会ごとに違う美術作品が飾られる。
ひいきの美術館があるとそういうのが楽しいな、と思う。
同じ場所なのに違う奥行き。「場所」ってすごいことだよね。
だって地震が日本の島(ほぼ)ぜんぶを揺らしたから、あの一体感が生まれたんだよね。
体で感じたんだよ。
土地をまっとうする、ってなんだろう。
生まれ育った土地の食べもの、水、を口にできないってなに?
ところでエル・アナツイ。
すばらしかった。
空き缶をつぶしてつなげる作業ひとつひとつは緻密なんだけど、作品ひとつひとつが大きい。
材料は現代を暗喩する空き缶なのに、手法はアフリカの伝統の布の織り方。
絢爛なのに、おひるねしそうにゆったり。
なにより木の彫刻や空き缶の織物すべて、色と形のリズムが心地よくて、
作者の目がそうとう良いんだろうなって思う。
エル・アナツイさんのビデオインタビューも見たんだけど、
おだやかで優しそうなひと。
その人柄が作品に滲み出るのかなあ。
作品は、アナツイさんの工房で、お弟子さんが何十人も集まって作るらしい。
しかもお弟子さんはいつ来ていつ帰ってもいい。なんていうか、地元に根づいてアートを作っている。
アフリカの伝統を新しい技術で編み直すことと、作品の生み出し方が、きれいに調和してる。
こうふんした私は売店でアフリカらしい顔の模様の缶バッジを買っちゃった(アフリカらしい、でインスパイアされる型にはまった見方を、この展示は否定してるとも言えるけど、お土産ものにはこの表現でもいいかな)。
ひさしぶりにすてきなおさんぽをした。
親戚が福島と岩手にいる。岩手のどこかっていうと、津波の被害が映画みたいにすごくて、よくテレビで映像が流されていた釜石。福島も浜通りではないとはいえ、とても心配だった。
幸いなことに親戚はどうやらみんな無事らしい。連絡をとれてないひともいるけど、Googleさんのおかげで安心できた。それにしても初めは焦って、慣れない停電のこともあって、家族を守んなきゃって(いっちょまえに)思って、キーッってなってしまった。
でもこういうときにどういう言葉が出てしまうか?出せるか?で、その人のことって大体分かっちゃうんだと思う。ほんとうにおそろしい。すごく考えなきゃならない。
これで疎遠になる友だちもいるかな。さみしいな。
でも変わらず友だちでい続けるひともいる。ありがとう。心からね。
だからね、象のように忘れないで毎日を過ごしていきたい。
例えば、きょう、家に新しいhi→が届いた。できたてほやほや。
これがわたし(たち)の希望なんだ。
毎日じぶんと戦ってる。同時に、毎日忘れてる。
数ヵ月後にはふつうの顔して、せっかくの小さな決意を、踏みにじってるのかな。
暮らしてくしかないんだよね。
わたしの大切なものを、更新して、続けてくしか、ないんだろうね。
ものすごい量の情報に溺れないように。
じぶんの言葉を。
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